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2015年01月29日

607年(?) 法隆寺建立

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607年(?) 法隆寺建立


法隆寺(ほうりゅうじ)、別名・斑鳩寺(いかるがでら)

聖徳宗の総本山である法隆寺は、607年、推古天皇と聖徳太子が用明天皇の病を治すために、薬師像を祀る斑鳩寺(現法隆寺)の建築を進めたことが始まりとされていますが、創建に関しては諸説あります。

643年、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に斑鳩宮(⇒601年 聖徳太子が斑鳩宮を造営)は焼失しましたが、法隆寺はこの時は無事だったと思われます。

日本書紀に、『670年の火災で法隆寺は焼失したという記されており、現在の法隆寺はそれ以降に再建されたものです。

法隆寺は、金堂や五重塔をはじめ現存する木造建築では世界最古といわれる建造物で、1993年、法起寺と共にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。


法隆寺
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1






icon18 斑鳩の里観光コース icon207

飛鳥時代、聖徳太子の宮が建てられ、仏教文化が花開いた斑鳩の里。

法隆寺⇒夢殿⇒中宮寺⇒法輪寺⇒法起寺(所要時間 半日から一日)

法隆寺の五輪塔の相輪に4本の鎌が刺さっています。聖徳太子の雷によけの鎌だともいわれていますが真相は謎に包まれています。

他にも『法隆寺には蜘蛛の巣が張らない』『境内には雨だれの跡がつかない』『夢殿の礼盤は汗をかく』など七不思議と呼ばれている謎があります。

法隆寺五重塔・相輪の鎌のナゾを解く(産経新聞「なら再発見」第47回)

斑鳩町観光協会  


Posted by 夢子 at 11:11Comments(0)607年

2015年01月28日

607年 国ごとに屯倉(みやけ)を設置

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607年 国ごとに屯倉(みやけ)を設置


屯倉(みやけ)

ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地。

屯倉は『日本書紀』の表記。『古事記』・『風土記』では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記される。

屯倉は大化の改新で廃止された。



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吉備白猪・児島屯倉と屯倉制

日本書紀によると欽明天皇16年(555年)に吉備地方の白猪屯倉が設置されました。屯倉はヤマト政権の領有する地方経営の拠点で、田地の耕作のための田部として、付近の人々が定められました。

白猪屯倉設置から14年後、田部として当初指定された人々のほかにも、その後に成長して耕作を担える年齢に達した者も出てきましたが、『籍』から漏れて把握されておらず、田部の負担から逃れる人々も多くなり、渡来系の胆津(いつ)を中央から派遣して、田部の丁(成人男子)の籍を調査し、改めて定めました。


  


Posted by 夢子 at 11:11Comments(0)607年

2015年01月27日

607年 小野妹子を隋に派遣(遣隋使)

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607年 小野妹子を隋に派遣(遣隋使)



第1回 遣隋使
600年 最初の遣隋使を送る


第2回 遣隋使
607年 小野妹子が国書を持って隋に派遣させる。しかし隋皇帝の煬帝(ようだい)を怒らせる


『隋書』によると、倭からの国書は『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや云々』となっていた。

煬帝は皇帝として天命を受け、天から地上世界の支配を託された唯一の存在である天子として君臨していた。国書を見た煬帝は立腹し、外国使節の迎接を担当する鴻臚卿(こうろけい)に、『蕃夷(ばんい)の書に無礼があらば、二度と聞き届けなくてよい』と言っています。

隋にとって、今回の使者は無礼千万だが、隋と対立する高句麗へのけん制という効果も考慮し、翌年小野妹子は無事帰国する。




  


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