
2015年01月14日
592年 蘇我馬子、崇峻天皇を殺害
トップ > サイトマップ >

592年 蘇我馬子、崇峻天皇を殺害
崇峻天皇(すしゅんてんのう)
第32代天皇
欽明天皇の第12皇子
生誕 欽明天皇14年(553年)?
崩御 崇峻天皇5年11月3日(ユリウス暦592年12月12日)?
在位 用明天皇2年8月2日(587年9月9日)?~ 崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日)?
587年、第31代天皇・用明天皇(ようめいてんのう)が崩御すると、物部守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ、欽明天皇の皇子)を即位させようしました。ところが、このはかりごとを知った蘇我馬子は穴穂部皇子を殺し、さらに物部守屋を滅ぼそうとしました。
こうしてついに蘇我馬子と物部守屋が対決することに(⇒587年 蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす)。
蘇我馬子の軍勢には泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子が加わりました。一方の物部守屋側は稲を積んで砦を築き、蘇我馬子の軍勢を迎え撃ちました。
戦いは物部守屋軍の勢いが強く、蘇我馬子の軍勢は3度も退却するほどでした。しかし、物部守屋が木の上から射落とされると物部の軍勢は崩れました。この戦いによって物部氏は滅び、蘇我氏が権威を誇るようになりました。
その後、泊瀬部皇子が即位しました(崇峻天皇)。
蘇我馬子によって逆に殺されてしまう。その後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまう。即位したあとでも政治の実権は常に蘇我馬子が握っており、崇峻天皇は次第に不満を感じるようになり、やがて対立するように。
蘇我馬子は腹心の東漢 駒(やまとのあやのこま)に命じて天皇を殺させました。

592年 蘇我馬子、崇峻天皇を殺害
崇峻天皇(すしゅんてんのう)
第32代天皇
欽明天皇の第12皇子
生誕 欽明天皇14年(553年)?
崩御 崇峻天皇5年11月3日(ユリウス暦592年12月12日)?
在位 用明天皇2年8月2日(587年9月9日)?~ 崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日)?
587年、第31代天皇・用明天皇(ようめいてんのう)が崩御すると、物部守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ、欽明天皇の皇子)を即位させようしました。ところが、このはかりごとを知った蘇我馬子は穴穂部皇子を殺し、さらに物部守屋を滅ぼそうとしました。
こうしてついに蘇我馬子と物部守屋が対決することに(⇒587年 蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす)。
蘇我馬子の軍勢には泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子が加わりました。一方の物部守屋側は稲を積んで砦を築き、蘇我馬子の軍勢を迎え撃ちました。
戦いは物部守屋軍の勢いが強く、蘇我馬子の軍勢は3度も退却するほどでした。しかし、物部守屋が木の上から射落とされると物部の軍勢は崩れました。この戦いによって物部氏は滅び、蘇我氏が権威を誇るようになりました。
その後、泊瀬部皇子が即位しました(崇峻天皇)。
蘇我馬子によって逆に殺されてしまう。その後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまう。即位したあとでも政治の実権は常に蘇我馬子が握っており、崇峻天皇は次第に不満を感じるようになり、やがて対立するように。
蘇我馬子は腹心の東漢 駒(やまとのあやのこま)に命じて天皇を殺させました。
![]() 崇峻天皇 暗殺事件 / 豊田有恒 |