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2015年01月09日

585年 物部守屋が仏塔、仏屋を焼く

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585年 物部守屋が仏塔、仏屋を焼く



物部守屋(もののべのもりや)

飛鳥時代の有力豪族

生誕  不詳
死没  用明天皇2年(587年)7月


当時、物部氏と蘇我氏は大和朝廷の中で勢力をふるっていた。両氏は仏教を認めるかどうかについて争っていました。

蘇我馬子・・・崇仏派
物部守屋・・・排仏派


585年、病気になった蘇我馬子は敏達天皇(びだつてんのう)に奏上して仏法を祀る許可を求めました。天皇は許可しましたが、このころから疫病が流行り出しました。

物部守屋は『仏教のせいだ』と天皇に訴え、仏教の禁止を求めました。天皇は仏教を辞めるように詔(天皇の命令)しました。

物部守屋は自ら寺に行き、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げました。そして蘇我馬子ら仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を差し出すよう命じました。蘇我馬子は尼僧を差し出し、物部守屋は尼僧を全裸にして縛り上げ、群衆の目の前で鞭打ちました。

しかし、疫病は治まらず敏達天皇も物部守屋も疱瘡(ほうそう)になりました。その後、国中に疱瘡による死者が出ると、人々は『仏像を焼いた罪だろう』と言いました。

翌年、敏達天皇は病が重くなり崩御されました。





検証・物部氏(崇仏論争の謎ー物部守屋/大伴・物部氏ー大和王権の直属集団 ほか)  


Posted by 夢子 at 11:11Comments(0)585年

2015年01月08日

585年 蘇我馬子、仏教を広める

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585年 蘇我馬子、仏教を広める


4世紀中ごろ、大和朝廷が全国を統一し、天皇と豪族による国づくりが始まります。

大和政権は天皇家を中心に有力豪族が支える形で強くなりましたが、一方では権力争いが絶えませんでした。

6世紀ころから飛鳥の地に進出してきた蘇我氏が勢力を伸ばします。優秀な渡来人の知識、技術を用いて、朝廷の財政を握り、その一方で天皇家と婚姻関係をもつことで政権を握ろうとしました。

蘇我馬子は仏法に帰依し、仏殿を造り、仏法を広めました。




蘇我馬子(そがのうまこ)

飛鳥時代の政治家、貴族

生誕  欽明天皇13年(551年)?
死没  推古天皇34年5月20日(626年6月19日)


  


Posted by 夢子 at 11:11Comments(0)585年